計画〜オープン
昭和10年、山梨県で初めてのゴルフ場として、当コースはオープンしました。開業当初は『富士ゴルフ場』と称し、電車とバスを乗り継ぎ「東京から3時間半」が「うたい文句」であったようです。
まだ土木用重機も十分ではない時代、溶岩台地を人力で切り開いた開発は困難を極めたようですが、80数年を経た現在では手造りコースの風情は当コースの名物となっております。
当時のパンフレットには、「富士山麓山中湖畔絶勝の地40万坪を相し、棋界の権威明石和衛氏、会心の設計に成る18ホールス、6507ヤードを巧置す」と書かれています。
またコースの特徴として 「弧線を描いて中空に飛ぶ白飛は時に富士の肌をかすめ、時に山中湖を越えて対岸の芝山を跳躍するかのように見える。その雄大豪華なること正に天下無双である」と紹介されています。
昭和21年には、アメリカ進駐軍に接収されるなど、苦難の時代もありましたが、昭和35年に二番目のゴルフ場ができるまでは、山梨県唯一のゴルフ場としてお客様に広くご愛顧いただいていたとのことです。
開業当時は若木であった樹木も今では立派な巨木となり、当コースの80有余年の歴史の生き証人として、今も静かにお客様のプレーを見つめています。